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2022.06.08

Dog Snapshot R 令和の犬景Vol.15 「街か山か」- 終の住処の選択

Dog Snapshot R 令和の犬景Vol.15 「街か山か」- 終の住処の選択

写真・文 内村コースケ

犬は太古より人類と一緒に歩んできました。令和の世でも、私たちの暮らしにさまざまな形で犬たちが溶け込んでいます。このフォトエッセイでは、犬がいる情景を通じて犬と暮らす我々の「今」を緩やかに見つめていきます。

山の自宅は自然環境抜群。しかし・・・

高齢化社会でこそ迫られる決断はいくつかあるが、「晩年をどこで過ごすか」という選択もその一つだろう。リタイア後に環境の良い田舎でのんびり老後を過ごす人が増えている一方で、歳を取れば取るほど、便利で人の目があり、医療・介護サービスが充実した都会で暮らすべきだという考えもある。

我が家では今、この「街か山か」という選択が、犬の身の上を巡って現実の問題となっている。

うちのラブラドール・レトリーバーの「マメスケ」はアイメイト(公財アイメイト協会出身の盲導犬)のリタイア犬で、もうすぐ13歳になる。大型犬の13歳は一般的な換算式でなんと人間の96歳相当とされる。マメスケ自身や比較的長寿とされるアイメイトにそれがそのまま当てはまるかは別として、相当に高齢なのは確かだ。現実に、予断を許さない2つの大病を抱えていて、終活を考えなければいけない時期に来ている。

前述の通り、僕が今迷っているのは、彼の一生のラストスパートをどこで過ごさせるかということだ。我が家は長野県の山荘と東京23区内のマンションの二重生活をしていて、マメスケとの生活の拠点をどちらに置くこともできる。これまでは、山が自宅で、東京の部屋は僕の仕事場という位置付け。マメスケは基本的に妻と山にいるが、東京にも時々来るという生活だった。だが、マメスケの大病が発覚した今年の年明け以降は、みんなでずっと東京にいる。山には一度も帰っていない。

山へ帰れない理由の一つは、「急峻な地形」だ。大病というのは骨肉腫という骨の癌(がん)で、これが左後肢に出てしまった。どんどん骨が脆くなり、しまいには自然に折れてしまう場合もある。その骨折の痛みを取るには断脚するしか方法がないとされる。僕の山の家は急斜面にへばりつくように建っていて、ビルの3階分に相当する斜面と階段を上り下りしないと出入りできない。周辺の散歩コースも舗装されてはいるが、急なアップダウンが続く山道だ。この環境が、骨肉腫を患う脚には負担が大きすぎるのではないかと心配だ。

そして、山の冬は長い。ゴールデンウィークにようやく桜が咲く。病気持ちの老犬には寒さは大敵なので、それも帰れなかった理由だ。夏はエアコンいらずの涼しさだが、体感は爽やかながら、森に囲まれた家の中の湿度は実は東京よりも高い。高湿度は病状によっては命にかかわるので、これも懸念材料だ。

裏返せば、そういう場所だからこそ、自然環境は抜群。清流が流れる自然林に囲まれ、場所によってはノーリードで散歩できる。小鳥の囀りを聴きながら爽やかな空気を吸える。飼い主的にもストレスなし。一長一短。だから、迷う。

山の抜群の環境は、急峻な地形と厳しい気候との表裏一体

山の抜群の環境は、急峻な地形と厳しい気候との表裏一体

街には世知辛さとの引き換えにメリットもたくさん

一方、東京の家の周りには坂道がなく、エレベーターで部屋に出入りでき、高度な動物医療機関が近隣だけで選べるほどある。エアコンで温度と湿度を自在に調整できる室内は快適だ。また、街では人や犬との出会いが多い。マメスケも日々の生活の中で、束の間の交流を楽しんでいるようだ。このマイルドな環境にずっといたおかげかどうかは分からないが、マメスケの場合、進行が早いケースが多い骨肉腫としては珍しく発覚時からほとんど悪化していない。日常の歩行に支障がない状態を保っているし、転移も見られない。

しかし、街では、一歩外に出れば車がすぐ横をかすめ、歩道はあっても暴走自転車に毎日のように轢かれかけ、周りの公園や団地は「犬の散歩禁止」の看板ばかり。散歩コース一つ、排泄一つに細心の注意を払わなければ、特に今の時代、マスクの裏の匿名の目線で粗探しをする人たちや、コロナ生活と長引く不況のイライラから「叩ける相手」を探している人々に足元をすくわれかねない。

街もまた、一長一短なのだ。

街は環境が緩やかで良い出会いも多い反面、交通や他人の目に細心の注意を払わなければならない

街は環境が緩やかで良い出会いも多い反面、交通や他人の目に細心の注意を払わなければならない

QOL維持のための結論

骨肉腫が安定している一方で、2年ほど前から兆候が見られていた慢性腎不全がここに来て悪化している。どちらも治療が難しく、進行を遅らせる緩和ケアしか飼い主にできることはない。つまり、病気を治すことよりも、QOL(Quality Of Life = 生活の質)の維持に努めなければならない状況だ。だからこそ、「街か山か」で悩むのである。

人に聞けば、ほとんどの人が「山でのんびり過ごす方が良いでしょう」と言う。でも、物言えぬ犬の希望を人間の思い込みやイメージで決めつけるのは危険だ。ここに書いた山のデメリットは、言葉でいくら説明してもなかなか実感として伝わらない。立ちはだかる細かな現実的な壁は、当事者にしか分からないものだ。僕自身、「暖かくなったからそろそろ山に帰してあげたい」と単純に思う。でも、リアルな問題を一つひとつ丁寧に考慮すれば、都会の方がマメスケのQOLに与えるリスクが少ないのではないかとも思う。

妻ともよく話し合い、考えに考えた結果、僕はマメスケの終の住処を、東京のマンションと決めた。ただし、「山の家」というせっかくの恵まれた環境も活かしたい。マメスケの体調が許せば、折にふれ1週間程度の短期滞在をしたいと思っている。そう、結局たどり着いたのは、都会に住み山の家を別荘として使うという、ごく普通の過ごし方である。もちろん、これに固執せず、状況の変化に応じていつでも方針を変えていいと思っている。

街(上)でも山でも、マメスケ本人の穏やかな表情は一緒

街(上)でも山でも、マメスケ本人の穏やかな表情は一緒

結局は、「無臭の街」に疲れた飼い主のエゴ?

実際のところ、山に帰りたがっているのは、都会に疲れてしまった僕の方である。マメスケはみんなと一緒ならどこにいても幸せだと思う。その証拠に、山でも街でも、マメスケは同じように尻尾を振って歩いている。とはいえ、僕が都会の生活をもっと楽しめば、街でのマメスケの尻尾の振りは、もっと大きくなるかもしれない。

そんなことに、この原稿を書いている日の雨の夕方の散歩で、はたと気づいた。辛いのは都会の世知辛さそのものではなく、コロナ下の「無臭の街」なのではないか。それを確認するために急いでマスクをずらすと、どこからともなく夕飯の味噌汁の臭いがしてきた。昨日まで、イライラの元でしかなかった横を掠めていく原付バイクのエンジン音も、ガソリンくさい排気ガスの臭いと組み合わされると、どこかノスタルジックな音に聞こえてくる。

そう、僕は、この街の「臭い」、つまり生活感がずっと大好きだった。もともと都会育ちだし、都会こそがホームタウンだ。街のスナップを何十年も撮り続けるほど愛している。しかし、マスク生活になってから街から臭いが消え、行き交う人々から表情が消えた。無臭の街にはネガティブな世知辛さだけが残り、僕は表情を失った人々から悪意しか感じ取ることができなくなってしまった。だから、マスクを必要としない山へ逃避したくなったのだ。

でも、そんなことは、マメスケには関係ない。コロナ前も今も変わらず「臭い」で散歩を楽しんでいるのだから。そこに気づいた今、マメスケにとって「街と山のどっちがいいか」と考えること自体が邪(よこしま)な人間のエゴなのではないかと思えてきた。明日からは、必要な時以外は少しマスクをずらして、優しい臭いを味わいながら街を、そして山を散歩しよう。

■ 内村コースケ(写真家)

1970年ビルマ(現ミャンマー)生まれ。少年時代をカナダとイギリスで過ごした。早稲田大学第一文学部卒。中日新聞の地方支局と社会部で記者を経験後、カメラマン職に転じ、同東京本社(東京新聞)写真部でアフガン紛争などの撮影に従事した。2005年よりフリーとなり、「撮れて書ける」フォトジャーナリストとして、ペット・動物愛護問題、地方移住、海外ニュース、帰国子女教育などをテーマに撮影・執筆活動をしている。特にアイメイト(盲導犬)関係の撮影・取材に力を入れている。ライフワークはモノクロのストリート・スナップ。日本写真家協会(JPS)正会員。